4月18日(土)、木岡敬雄(きおかたかお)さんを新宿サテライトに迎え、第11回フォルマ・フォロセミナーを開催しました。
対談:大嶋信道(大嶋アトリエ 武蔵野美術大学建築学科卒業 17期)
司会進行:岩岡 竜夫(東京理科大学 武蔵野美術大学建築学科卒業 15期)
15期卒業の木岡敬雄さんは、在学中、日本建築史の非常勤講師に来られていた宮上茂隆氏と出会い、その後宮上氏が設立した竹林舎に入所し、平成10年11月、宮上氏の死去にともない竹林舎代表に就任されました。
この間、掛川城天守、大洲城天守等の復元設計や、国泰寺木造三重塔、建長寺客殿「得月楼」等の寺院建築の設計に携わるほか、日本建築史に関わる出版、復元模型の設計と制作、映画、テレビ等の復元考証、監修等に携わって来られました。
今回のフォルマフォロセミナーでは、「歴史と建築の間で」と題して、今まで様々な形で係わってきた復元例を紹介するとともに、それらを通して見えてきた事柄についてお話し頂きました。
第1部は、薬師寺伽藍復元の歴史考証の話から始まりました。大坂城の復元では、徳川時代と豊臣時代の本丸石垣の重ね合わせから、それまでの歴史家の見解と異なった発見があったとの話が伺えました。
信長の安土城では、資料の「安土日記」から、天守の構造を紐解いていった経緯や、前代の室町将軍邸の影響についても語られました。
姫路城、大坂城、江戸城の比較では、図面化する事で天守のサイズが権勢の反映である事が如実に示されました。
次に「掛川城天守」と「大洲城天守」の復元実施の関するお話です。
「掛川城天守」は、山内一豊が創建し安政の地震で失われた天守です。少ない資料の中、1990年から1993年まで3年かけて、青森の材木と大工、岐阜の瓦を使い木造で復元されました。
「大洲城天守」は、逆に資料が豊富にあり、既存の重文の櫓をつなぐ形で天守が復元されました。梁などに使用した木曽檜以外は、地元大洲の木材を使い、富山の社寺大工さんと大洲の大工さんとの共同作業で作りあげられました。日本の伝統技術は職人の中にあることを実感されたそうです。
また、再建から10年経ち、地元の方から、当時の小学生だった子供は大人になり、彼らの原風景には始めから復元した天守があったことを伺い、城の復元事業は、建築を作るだけでなく街の活きた歴史を創り出すことだったと、締めくくられました。
第2部は、保存再築だけでなく、現代建築の素材技術への造詣の深い大嶋信道さんとの対談となりました。
大嶋さんは竹林舎という民間企業が、在野で木造城を復元する仕事を生業にしている事を大変評価され、その中で、木岡さんはフリー建築史家として活動していると称されました。
大嶋さんは、木岡さんの師である宮上茂隆氏と内藤昌氏を、在野とアカデミズムの対立構図で示しました。木岡さんは、内藤氏が資料とした絵図から吹抜けに解釈した部分に対し、宮上氏は図自体の関係が破綻していると攻撃したエピソードを披露しました。新聞に発表された宮上氏の金閣寺新説について、大嶋さんが疑問を投げかけると、木岡さんは、隣接する建物との関係からその正当性を主張する一幕もありました。この立面も木岡さんが書かれたそうです。
「火天の城」では建築考証だけではなく、映画のシーンに出てくる指図や模型の元図はほとんど木岡さんがかかれています。原作者の山本兼一氏は木岡さんの案内で「大洲城天守」を熱心に見学され、その経験が執筆の大きな原動力になったとのことです。
江戸城再建の話もでて、その復元が出来る人材は、木造で実際に城を復元した木岡さんしかいない!と、大嶋さんが熱い激を飛ばして対談は終了となりました。
以上 21期・会長 酒向 昇