第22回 プレ・フォロ開催報告

第22回プレ・フォロにおきまして、「ムサビ建築学科の歴史をプレ・フォロメンバーで共有しよう」という趣旨で行っている座談会の5回目を下記日時と場所で行いましたので報告いたします。
今回は、学生時代がバブル期だった21〜25期(1988-93年卒)のゲストスピーカーをお呼びして、ムサビの建築学科でどのような学生時代を過ごしたのか、また、その後どのような進路を進まれたかなどのお話をうかがいました。

日時:平成27年9月19日(土) 16:00~20:00
場所:酒向邸(練馬区立野町)

ゲストスピーカー(敬称略)
21期:酒向昇 竹中工務店設計部設計第8部門グループリーダー
22期:石田摩美子 石田設計室主宰
23期:佐藤恒一 サンケイビル勤務
24期:田中行 建築+デザイン事務所イッスン主宰
25期:黒田潤三 黒田潤三アトリエ主宰

企画担当:更田邦彦 16期(プレ・フォロ幹事)
進行役:同上
準備他:寺阪桂子 34期、棚橋玄 41期、鈴木竜太 36期 (プレ・フォロ幹事)

出席者(敬称略-期代)池野-2、松家-5、寺澤-16、寺田-16、黒沢-20、石川-26
陪席者(敬称略-期代)田宮-24、菊池-34

全体2

進行役:ムサビ建築学科の歴史を少なくともプレ・フォロ内で共有しようという趣旨で、過去4回にわたりプレ・フォロの座談会を行ってきました。1回目は、2期の方々から建築学科草創期のお話を、2回目は、2期から7期の方々から学園紛争期の混乱状態のお話を、3回目は、9期から14期の方々から、学生も先生方も元気いっぱいだった頃のお話を、そして4回目は、15期から20期の方々から、ややシラケ気味で達観していた頃のお話をお聞かせいただきました。そして今回は、時代背景がバブルだったころの21期から25期までのゲストの方にお越しいただき、どのような学生時代を過ごされその後ムサビからどのような影響を受けて社会に出ていったのか、といったお話をお聞かせいただければと思います。では、21期の酒向さんからお願いします。

酒向(21期):今日は主に課外活動編についてお話ししたいと思います。(モニターに映像を映しながら説明)芸祭では、建築学科の1年生が「おかめ」という焼き鳥屋を作って商売することになっていたので、自分たちで模擬店を作ったことが、少し大きなものを作る始めての機会になりました。それから「建築研究会」が、東大の呼びかけで五月祭に参加することになり、東大校舎の1ブースを借りてインスタレーションを作ることにもなりました。その際、東工大の学生(塚本、山田、西沢)や東大など他大学の学生たちとの交流が生まれたことが良かったけれど、そこで勝負する相手は<外>だと思うようになりました。翌年は、ひたすらブースの中で花見をするということを試みました。この五月祭に参加することはいい活動だと思っていました。その他にも芸祭時に共通絵画の教室である「シベリア」を借りて、油絵科の人達とインスタレーションを作ったりもしていました。
また、勝負は<外>だと思っていたので、ムサビ以外にも芸大などの卒業制作や終了制作を見に行ったりもしていました。大学院時代ではビジュアルコミュニケーションの祖であるアイヒャー先生が募られたワークショップが印象に残っています。
その他、大学院時代に小倉さん(18期)含め皆で軍艦島に探検に行って、そこでバーベキューをしたのも楽しい思い出です。

酒向さん

進行役:「建築研究会」はどのくらいの期間活動していたのでしょう?

酒向:17期の布施さんが立上げて、23期の峰さんまでの6年間くらい活動していたのですが、小倉さん(18期)や小林さん(17期)がいたので、建築をたくさん見に行きましたし、それらの難解な解説を聞かせていただきました。
また、学生時代はバブルだったので、全般的に楽しい学生生活をおくれたと思っています。竹山先生はあまり学校にはいらっしゃらなかったけれど、先生の事務所にアルバイトには行ってましたし、いろいろな設計事務所のアルバイトを選んでやることもできました。

進行役:酒向さんからは、学校での課題以外に関わるいろいろな活動についてお話しいただきました。続きまして、22期の石田さん宜しくお願いします。

石田(22期):まず学生時代の頃のお話をしますと、私は現役で入ったのですが、時代もバブルで周りの学生や環境が派手だったこともあり、学校を怖く感じていました。それにもともと理系の大学に行こうと思っていたので、美大というものを作るエネルギーに圧倒され、日々苦しい思いで過ごしていました。そこで、いろいろな設計事務所にアルバイトに行って、模型作りなどをしていましたが、それは「作る」ということではなく、技術を習得して日々ステップアップするということだったので楽しんでやることができました。そんなとき、源先生のお話が面白く感じて、先生の構法の授業を通して建築の言語にも興味を持つようになり、当時の「バナキュラーゼミ」にも参加して、夜の工場や廃墟などを見に行ったりしていました。また、芦原先生の退官時でもあり、記念写真を撮ったのを覚えていますし、それにエイズが流行ったのもその時期でした。

黒沢(参加者20期):ムサビには予備校の派閥があって、現役生にはそれが障害に感じる部分があったのだと思う。

進行役:石田さんは竹山ゼミ出身ですが、竹山先生の影響は受けなかったのでしょうか?

石田(22期):竹山ゼミにいながら源ゼミに通っていました。竹山先生には、なぜメタボリズムが衰退したのかといったことなど、要所要所を教えていただいたと記憶しています。

進行役:卒業後どうされたのか、お話があればお聞かせください。

石田(22期):アトリエ事務所にはまだ多少の抵抗感がありましたが、修行するつもりで、まだ古い空気感が漂っていたレーモンド事務所に行くことにしました。そして、手描きの図面をバンバン描いて7,8年が過ぎていきました。その後、坂茂事務所に自分のアトリエをやりながら15年ほど勤めましたが、それ以降、独立してからものを作ることが楽になり、今では設計の仕事を大変楽しく感じています。

石田さん

(作品のプリントを示しながら説明)一つ目は、独立して初めての仕事で、羽根木神社の社務所と賃貸オフィスが入る建物です。どうやって使われるかを1年間通して、神社の行事に参加しながらスタディした建物で、10年経った今でも計画通りに使われているのを見てうれしく思っています。次の東京国立博物館本館のミュージアムショップは、大きな空間を博物館の最後の展示室というコンセプトで計画したものです。そして今は、福島県の築90年の教会の再建計画を1年以上掛けてやっていまして、信者であるお年寄りを中心に、周りの人をいかに取り込むかというワークショップを開きながら設計に取り組んでいます。

進行役:石田さん、ありがとうございました。続きまして23期の佐藤さん、お願いします。

佐藤(23期):(モニターに映像を映しながら説明)私は、子供の頃からテニスをやっておりまして、大学に入ってもテニス部に入るつもりでいました。今日は、そのテニス部時代のことを中心にお話ししたいと思います。
テニス部も建築学科と同じく去年創部50周年を迎え記念パーティーを行いました。90名ほど出席しておりましたが、建築学科出身の部員が多く写真の中に知っている方がおられるのではないかと思います。
ムサビも一応体育会系のクラブでしたから、早稲田や明治とも試合をするのですが、私が学生だったころは、今のオムニコート(砂入人工芝)とは違って、土のクレーコートでしたので、コート整備が大変だったことを良く覚えています。
それから、夏合宿の最終日は、毎年仮装をしてテニスをすることが伝統になっていて、それは13期から26期ぐらいまで続いたようですが、布屋さんから布を買い込みポータブルミシンを合宿所に持ち込んだりまでして、かなり凝ったものを作るようになりました。テニスはテニスでちゃんとやっていましたが・・(仮装した部員の写真を多数見せていただく)

佐藤さん

建築学科では、当時竹山ゼミが1番人気で、保坂ゼミが2番人気でしたが、保坂先生がご自分の仕事を持ち込んできたためにみんな敬遠してしまって、私は長尾ゼミに行くことにしました。建築研究会などの活動は知っていましたが、自分は特に関心が持てず長尾ゼミから卒業しました。

進行役:特に学生時代の楽しかったお話をお聞かせいただきましたが、時代背景がバブルだったということはかなり意識されていたのでしょうか?

佐藤:私に関しては学生の頃にバブルだったことを意識したことはなかったです。
しかし、卒業後は2回転職をしておりまして、20代は飛島建設で主に土木プロジェクトに関わり、30代では京急建設で鉄道と開発関係の仕事を経て、40代で現在のサンケイビルに入社し、現在はデベロッパーの仕事に携わる中、新築物件の工程・コスト・品質管理の仕事をしております。

進行役:ありがとうございました。次に24期の田中さん、お願いします。

田中(24期):私は神戸出身でしたので、高校時代安藤さんの初期の建築をすでに見ていまして、その影響もあって建築、しかも美大系の建築を目指すことにしました。バブルが背景にあって、しかも保守的な神戸から抜け出したかったこともあり、ムサビに来て周りが畑だらけの場所だったことは心地良かったのですが、学校では予備校グループの人達のパワーに圧倒されていました。当時はポストモダンが流行っていましたが、私には肌が合わずアイレベルで小さなスケールのものを作っていきたいと思っていました。そんなとき立花先生から好きな建築のトレースを勧められ、バルセロナパビリオンなど自分の直感でいいと思うものをトレースしているうちに、設計がどんなものか分かるようになっていきました。もうひとつは、岩淵先生にある課題で「いろいろなバランスの取り方がいいね」と言われたことで、自分のやっていることに納得ができるようになり、そんなことがきっかけで、デザインというものを消化できるようになり、卒業してからはインテリアの道に進むことになりました。

田中さん

当時はバブルだったので、就職先もゼネコンや大手設計事務所など多々ありましたが、私は4年の後半から「スタジオ80」にアルバイトに行っていてそのまま就職しました。しかし、商業建築の場はとにかく厳しく、キツイ仕事が強いられる業界であることに入所してから後悔しましたが、好きな仕事だったので何とか5年間勤めることができましたし、独立して今日あるのもあの5年間のお陰だと思っています。

田宮(参加者24期):当時の課題講評会のビデオを持ってきているのでお見せします。(竹山先生も映っている講評会の様子を録画した映像をしばらく見る。そしてまた田中さんの話に戻る)

田中(24期):(モニターに映像を映しながら説明)現在は、デベロッパーさんの商品開発とインテリアでは店舗を行っていますが、それとは別に縁があって伝統工芸のプロダクトの仕事もしています。ひとつは四国の水引で作ったボトルケースで、もうひとつは秋田大館の曲げ輪っぱのお弁当箱とコップです。これはグッドデザイン賞もいただき、5年経ってようやく去年からカタログのトータルデザインまでやらせてもらうことになりました¥。それから、このガラスの調味料入れは、富山デザインコンペティションでのワークショプがきっかけで出来上がったものです。

田中さんガラス

現在の仕事はインテリアよりもプロダクトの割合が多いのですが、インテリアでは、梅田の百貨店内のネイルサロンやシャープのジャカルタショールームなどを手がけております。

松家(参加者5期):他の学校の建築学科を出た人では、これほど幅広い分野で活躍する人はいないでしょうね。

進行役:田中さんありがとうございました。ここで休憩をとり、その後25期の黒田さんからお話いただくことにします。

黒田(25期):私が1年生のときに年号が昭和から平成に変り、バブルまっただ中で多くの学生がサブカルチャーに長けていました。2年生の時に芸祭が大規模イベント化して、多くの先輩の活躍に刺激を受けていました。そして就職先を考えるころには、ゼネコンに美大枠といったものがあり、希望すればゼネコンのインテリアやランドスケープといった部署に行けるような時代でもありました。
デザインの潮流は「ポストモダン」で、3年生のときには竹山先生に晴海フェリーターミナルの現場に連れていってもらいましたが、その後「デコン」も含め、都市の表層的なことを論じることよりも、東工大系の建築の実体を論じているところに興味を持ちはじめたこともあり、「篠原スクール」の武田光史さんの事務所のアルバイトを経て、当時「幕張の集合住宅」の設計をしていた東工大の坂本研究室に行くことにしました。研究室では、夜11時ごろまでは、幕張の実施設計をしているのですが、それ以降はそれぞれコンペや雑誌などの作業をしていたので、大いに刺激を受けながら自分も月の半分は家に帰らない日々をおくっていました。

(モニターに映像を映しながら説明)そして3年後くらいからアートをやり出しましたが、その一つは、「微分」という形態操作で作ったスポンジアートで、当時パルコが主催していた「アーバンアート」に入選し、次に「積分」をキーワードにスポンジを積上げていく操作により家になったり家具になったりする「ウォッシュマン」という作品を作り、どちらも現代アートの分野で取上げてもらいました。

黒田さん

時代背景としては、バブルがはじけて携帯電話が出て来たころであり、建築を発信する場合、個人からユニットに変ってきたころだったと思います。そんな中、貝島桃代さんの「メードイントーキョー」の展示を手伝うことになったのですが、社会から生まれる建築のダイナミズムをサーベイすることにより、建築をその単体ではなく、風景の中でそれがどう見えるかということを言語や論理を使って客観的に捉えようとしていました。

最近では、産婦人科クリニックの設計とそのブランディングを含めて、建築を通したコミュニティデザインを考えており、松山の産婦人科クリニックでは、建物だけではなく、ロゴマークや診察券・アンケート・母子手帳までデザインして、さらにクリニックの運営に至るまで提案することができました。今後は、産後のコミュニティづくりなどを地域との共同性により、デザイン化していきたいと考えています。
というように、産婦人科クリニックでは、建築・ランドスケープからサインやアメニティに至るまで、デザインしようと思えばいくらでもあるわけで、それらを総合的に考えていく手法がムサビ的なのではないかと思っています。

進行役:黒田さん、ありがとうございました。黒田さんの場合、歩まれた進路もそうですがデザインするものの境目といったことがあまり感じられません。私たち(16期)の頃に比べると黒田さんや田中さんの時代(24,25期)では、その辺の捉え方が大きく変ったように思われます。

黒田(25期):私の場合、ムサビにいる時はムサビっぽくないこと(論理邸的な展開)を目指していて、東工大にいる時は東工大っぽくないこと(現代アート)を目指していたように思いますが、我々の世代も含めそれ以降は、建築に固定されずに多様な方向に進んでいけたように思います。「日月進歩」(日月会主催のシンポジウム)でもそんな多様な方向に進んでいる人達の声を多く聞きました。

松家(参加者5期):それから、その世代の人達は、いろいろな分野の人達が集まってユニットを組むということも進んでいったようで、そういったユニットやアトリエが今活躍している。

黒田(25期):学生のときは、バブルもあってアルバイトの仕事がたくさんあったのですが、卒業してみると仕事がなく、ユニットを組んで意見交換しながら仕事を探していくというやり方になっていったのだと思います。

田中(24期):何かを仕掛けないと仕事が生まれないジェネレーションのように思います。なので、不動産業界にも入り込んでいくといったことが必要になってきた・・

池野(参加者2期):それにしても、バブル期にムサビで自由に学べたことは良かったと思う。社会に出た時はバブルがはじけて愕然としたかもしれないが、その時に自由な発想でいろんな方向に進んでいけたことで、皆さんこのように活躍していくことになったのだと思う。

黒田(25期):我々の時は、今のようにネットから情報を得るようなこともなく、根拠のない自信をもとに漠然としながら進んでいけたことも良かったのだと思います。

田宮(参加者24期):次回はポストバブルの話が聞けることになりますね。

進行役:そういうことになります。今日は長時間にわたり貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました。

以上

上記内容は、更田(16期)が当日のメモと音声データをもとに記述したものです。

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