ある書道展にて

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昨日、私はDMを頂き、小さな書道展にうかがいました。場所は新橋よりの銀座。
以前、私も書を習っていたのですが、最近はすっかりご無沙汰してしまっています。
この「黙」の作者はどなたでしょうか?

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実は長尾先生なんです。
すっかり「書」の魅力に虜になられたご様子。

長尾先生も出品されているグループ展は12月5日(土)まで。

仁書道会展
ギャラリーユニグラバス銀座館
中央区銀座8-12-11 tel 03-3545-5947
11:00 – 18:00 (但し最終日は16:00まで)

by  miki hayashi

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パルテノン多摩での1日

縁があって7月からある市民ミュージカルのスタッフとして週末を過ごしてきましたが、11月7日の昭島公演を皮切りに11月いっぱい各地で公演中。全部で6公演。最後の2公演は同じ会場で昼、夜公演ですが、あとは毎回違う会場で上演します。先日は多摩ニュータウンのシンボル的な施設パルテノン多摩で公演。朝から準備のため会場入りしたのですが、会う人会う人が、何でこんな設計したの?使い勝手が最低!と言い寄ってくるのです。私が設計したわけじゃなく、でも同業者ってことでなんとかなく不満をぶつけられてしまったようで、傍迷惑な話です。観客の方はどう思っていらっしゃるかはわかりませんが、上演サイドとしては、段差が多くて移動が大変(今回制作陣はちょっと年配の方々)、迷路のようでわかりにくい・・・とかなんとか。みなさん「建物は立派なんだけどねえ。どうにかなんないの」ということのようです。私も初めて裏方としてこの劇場の中を散策。段差も気になりましたが、動線的には方向感覚がわからなくなる感じでした。1日だけの公演で、ミュージカルなど演劇系だと楽屋と舞台の頻繁な行き来があり、慣れないうちはちょっと大変そうです。ホールの音響についてPA担当者に聞くと、クラシックや合唱系の反響を利用したコンサートとは違い、音響システムを使ったコンサート(今回のミュージカルもそうですが)は、その調整が極めて難しいとのことでした。

公演は1000人を超える観客の方に観ていただき大変好評を博し大成功。

舞台バラシを手伝い機材の搬出を終え会場を出てくると、パルテノン大通りがライトアップされていました。長ーい一日の終わりは、もちろんキャストたちとプチ打ち上げ!

ちなみにミュージカルは「LIVE!憲法ミュージカル2009ムツゴロウ・ラプソディ

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16期上田明宏

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葛藤の獲得

 

第1回 フォルマ・フォロ セミナー レポート

坂本一成講演会:構成形式と現実条件の緊張関係・ニュートラルな建築の空間のために

平成21年9月5日 17時~19時半

於:武蔵野美術大学新宿サテライト  

 

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葛藤の獲得

 「つよい表現を避けるための家型。クライマックスの無い。デザインレス。できるだけ曖昧で不明確に。」

 ・・・作品を語るなかででてきた言葉である。ここに共感できないと坂本作品には入りづらいかもしれない。

そこで逆の言葉をならべてみる。

つよい表現のためのかたち。クライマックスのあるデザイン。できるだけ明瞭・明確に。 ・・・少しみえてくるのではないだろうか。これらはものをつくる上でのひとつのテクニックである。これらを実践することで、作品をインパクトあるものとすることができる。便利なテクニックといえるかもしれない(課題作品の講評会で教師がいいそうなことではないか)。

反面、つよく明瞭な提示であればあるほど(つまりテクニックに忠実であればあるほど)、それは早速シンボル化し、ステレオタイプ化され、ひとつの記号となってしまう宿命をもっている。観光地のお決まりのスポットで記念撮影をして安心して帰るあの心理である。つまり人々の思考は記号の先へはなかなか進まない。

そこでシンボル化を避け、感受性をオープンにし、思考の可能性を担保するための方法が、冒頭に挙げた「つよい表現を避けるための・・・」という言葉へとつながってゆくのではないか。もちろんこれらの言葉には、他にもさまざまな意識をみることができるとおもう。

これは偶然なのか作品の多くが、広く都市と呼んでいい環境のなかに立地している。このような環境における(特に東京という都市における)建築のありかたとして、その曖昧な形態は極めて示唆的である。ここには、声高に主張するものの集合体として都市というもがあるのではなく、かといって、ファサードの連続による整った街並みといった従来の欧米の都市像とも異なるあり方が提示されているようにみえる。

また坂本氏は、本音のところでは、クライマックスのあるつよい表現というものにどうにもベタでクサイものを感じているのではないか、あるいはうんざりしているのではないか。というのも、作品にはささやかなはずしがあり、どこかに仮設性が漂う。そしてそこに、語られた言葉の対照性とは異質のメッセージを感じるのだ。それはむしろ、現代との共振のなかで、身体的に探り出されてきた結果のようにみうけられる。

 

「形式は必要だが、足かせになってしまう。」

・・・ドミノシステムやラセンあるいは家型(これもひとつの形式だとして)、このように空間的な示唆をもつ抽象概念を手がかりに設計をスタートさせるのだが、現実(たとえば敷地条件)とのせめぎあいの過程において、当初設定した概念(形式)が逆に設計の足を引っ張る存在になってゆく。それをいかに解決してゆくか。あるいはそのための葛藤をいかに生きるか。そこに建築の質を決めるものがある。(当然、形式を選択するさいの根拠が重要なのだが) ・・・はじめの言葉を私なりに解釈するとこのようになるのだが、はなはだ心もとない。けれど、おそらくここにある発言は、現代の社会や文化がかかえる課題と設計のテーマの共振性をふまえつつ、じつは設計過程の葛藤と、社会や文化のなかで発生する葛藤とがつながっていることが大切なのだ。というメッセージに聞こえてくる。 

このような文脈のなかで「現代建築の多く、・・・たわむれにみえる。」という第2部での発言(鈴木明氏との対談)をとらえると、最近の建築の多くは葛藤の質に対して無自覚な、シミュレーション技術のみを享受したゲームにみえる。あるいはゲームと葛藤を混同している、ということになるのではないか。

 

ところで、レクチャーの構成形式は極めてオーソドックスなものだった。

第1部のレクチャーでは、処女作「散田の家」から最新作「Tokyo Tech Front」まで、おおよそ40年間の主要作品が年代順に紹介された。それは建築家:坂本一成の仕事を、自身の声とともに俯瞰できるという貴重な機会であったのだが、私には、坂本氏特有の緻密な言葉を、特定の作品に分け入って聞いてみたいという希望もあった。網羅的な視点からはそれはあまり期待できないのではないか。オーソドックスな形式という中立的ないいかたをしたのはそんな理由からだ。

一方、坂本氏の語りは、個々の作品や当時の言説について他者のそれのようになされていた。そこには過去を顧みるような情緒は微塵もなく、自身の作品に対する徹底した、しかも微妙な距離のとりかたがあった。そして同様の距離感が、さらにいえば間合いが、われわれ参加者とのあいだに漂っていた。

休憩をはさみ第2部は都市建築ワークショップの鈴木明氏との対話であった。鈴木氏からは特に「スケール」(ものの大きさ・プロポーション)というポイントに絞った質問がなされ、坂本氏がそれに答えるという形式をとった。

2人はステージの両袖に離れて座り対話がおこなわれた。つまりここにもうひとつの距離が生じることになった。そして参加者との微妙な距離(間合い)が、これをきっかけに2人のあいだに移動した。結果、参加者とステージの距離が縮まったのかもしれない。会場は微熱を帯び、坂本氏の言葉も正確さから率直さへと移行したようにみうけられた。

語られた言葉をいくつか挙げておきたい。

「形式がスケールと合致していることが私にとって重要。」

「用途がなくなってもフィジカルな建築として生きなければならない。」

「もっぱら言葉と身振りで・・・」(スタッフに自らの設計を伝える手段として)

 

オーソドックスに始まったセミナーは果たして現実条件のなかでどのような葛藤を生きたのか。いずれにしても第1部と第2部が互いに補完するなかで坂本的体験ができたと感じている。そして坂本氏特有の緻密な言葉を、特定の作品に分け入って聞いてみたいという私の密かな希望は、先日大岡山の“Tokyo Tech Front”東工大蔵前会館を訪ねたことで,

ある程度かなえられたようにおもう。これは私にとってセミナー第3部であった。

 

(“Tokyo Tech Front”については雑誌「建築と日常」No.0 に坂本氏へのインタビューというかたちで詳しく紹介されている。)

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 小倉康正(18期)

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