プレ・フォロの企画で行っている「ムサビ建築学科の歴史をプレ・フォロメンバーで共有していこう」という会を定期的に行っています。昨年のことになりますが、この第3回目が2014年7月27日に開催されました。前回の第2回では学園紛争期の貴重なお話を5名の方々から様々な視点で伺いましたが、今回はその直後に学生時代を過ごされた方々にご登場いただきました。
開催日時:平成26年7月27日(日)
開催場所:更田邦彦建築研究所(世田谷区代沢4-40-10 サクラB)
ゲストスピーカー(敬称略):
・伊坂 道子(9期) 一級建築士事務所 伊坂デザイン工房
・足立 正(11期) 足立建築研究所、武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科、通信教育課程 非常勤講師
・藤原 成暁(11期)(株)一級建築士事務所 藤原成暁設計室、ものつくり大学建設学科 教授
・南部 昌亮(12期) フォワードスタイル株式会社 代表取締役社長
・佐奈 芳勇 (14期) 佐奈建設(株)代表取締役
企画担当:棚橋玄-41(プレフォロ幹事)
進行役:更田邦彦-16(プレフォロ幹事)
準備他:鈴木竜太-36、寺阪桂子-34(プレフォロ幹事)
出席者(ゲスト・幹事除く、敬称略):真壁-2、松家-5、岩岡-16、寺澤-16、寺田-16、上田-16、小林、小池-20、酒向-21、内海-34、菊池-34
まずはこの企画初となる女性のスピーカー・伊坂道子さんから、ムサビ建築に入学された経緯から、お話いただきました。
伊坂(9期):工芸工業デザイン学科と建築学科と両方受験してどちらも合格しましたが、建築の仕事をしていた父の薦めもあって建築学科に進みました。建築学科の受験科目は英語、現代国語、数II、と「手に現実にはない電話の受話器を持った手を描く」という題の鉛筆デッサン。クラスには全国津々浦々からいろんな方が来ているというのが印象的でした。当時は女子が8人、理系の建築の勉強をしていて受験のときに初めて絵を描いたという人もいました。入学した頃には学園紛争の痕跡はほとんどなく、紛争前には磯崎先生や芦原先生もいらっしゃったと伝え聞いた程度でした。
1,2年は基礎の課題を保坂、竹山先生に指導していただきました。「リアリズム美術研究会」(通称:リア研、 建築学科以外にもファインアートの学生もいた) に入り、個展や棟方志功を招いて講演会などをやり、デッサンの勉強を4号館のアトリエ棟で続けました。3年以降は選びたいジャンルを選択して学びました。寺田先生が主となり設計の課題、織本先生が構造の授業を担当されていました。他にも保坂先生、竹山先生、川瀬先生などが教えていらっしゃいました。私は住宅を学びたかったので坂本ゼミに入りました。当時坂本先生は「水無瀬の町家」を発表直後の時代。実際にご自身で計画されている建物の敷地を、学生の課題の対象にしたことも。他にも既存の民家のリサーチをしたり、リノベーションの課題などが印象的でした。4年生の夏休み、東海大学・稲葉和也先生の民家調査(東久留米)に参加しました。卒業制作は「道を挟んだ住宅」という題の集合住宅で、6軒の全てプランの違う集合住宅を設計しました。ムサビには高名な先生たちがいらっしゃる中で勉強できるという自負があったと思います。
真壁(2期):学生のときはわからなくても、卒業してみると当時先生が抱えていた問題意識と重なってみえてくるようになる。坂本先生はパブリックという概念を批判していた。集合住宅の中に、伊坂さんの卒業設計の課題と重なったのでは?
伊坂(9期):坂本先生は「何の課題をやりましょうか?」といって学生に問いかけることから始める先生でした。みんなでこういうのがやりたいというと、応じくださいました。それでも、どんなテーマをえらんでも、坂本先生の薫陶に染まってしまうのです。
更田(16期):1~4年にかけて、高度成長期時代背景を感じたものはありますか?
伊坂(9期):卒業の頃は高度成長期が終わった時代。就職活動を始めた4年生の時にはオイルショック(’73)が始まっていて、例年は700あった求人は70件に減っていました。
-伊坂さんには建築学科50周年のために探した資料の中から、入学式と卒業式の写真を持ってきていただきました。
「坂本先生はいつもネクタイをされて、ダンディで笑顔が素敵だった」そうです
-続いて早稲田大学を卒業された後、大学院からムサビに入学された足立正さんに、早稲田との比較を交えながら当時の様子をお話いただきました。
足立(11期):’76年に大学院に入学。オイルショックで求人がなくなり就職難の時期でした。ムサビの大学院入試と早稲田の卒業制作の提出日がたしか2/7で同じだったため、前の日までに卒業制作を仕上げて代理で友人に提出してもらい、試験を受けました。
学生数はムサビ80人に対して、早稲田は180人。ムサビに入学して一番驚いたことは、一人ひとりちゃんとプレゼンテーションさせてくれること。当時、早稲田はA+をとらない限りは講評されず、ただ提出のみ。B以下だとなにがよくてなにが悪いかすらもわからない。3年生からの課題は美術館、小学校、事務所、劇場というビルディングタイプの課題が続いていました。提出図は平面・立面・断面図のほかに、梁伏図も必要で、コンセプチュアルなものは出てきませんでした。卒業論文、制作では安東研究室に所属していましたが、大学院でもいかないと先生と話す機会もすくない環境でした。卒論のテーマもマスターやドクターがやっていることが主題で、卒論生は補助的な役割でまとめていくというものでした。安東研の場合は小学校などが中心で、自分で選んだテーマは子どもの遊び場。また研究室それぞれの色がはっきりついていて、ドクター、マスターのヒエラルキーがありました。当時はTEAM10や丹下さんの影響から始まり、ポール・ルドルフの真っ黒に描き込んだドローイングなどがはやっていましたね。そんな力強い早稲田時代に疑問を感じつつ、僕の愛読書は1970年創刊のan•an、パルコのデザイン、倉俣史朗の世界感が好きでした。
新大久保にあった先輩の事務所で泊まり込みのバイト後、朝方の歌舞伎町に行くと、そこにあったのが1970年にできた一番館。これは違うという衝撃を受けました。それが竹山先生との出会い。ムサビの大学院に行ったのはオイルショック、竹山実、中学時代の友人が工デにいたという3つの理由です。
ムサビへ入学した当時は保坂先生の図書館の増築計画の工事中の頃。大学院の竹山ゼミは内部2名、外部2名(他大学から入ってきた最初の学生)。ムサビにきて感動したことは、先生が学生4人にコーヒーをごちそうしてくれたということ。スーパースターとお茶をのみながら建築の話しを聞けたのがとてもうれしかったですね。4年生の授業を聴講させてくれた時、コンセプチャルな課題で何をやっても良いという雰囲気に驚きました。先生のことを「~さん」と呼びかけ、「~先生」と呼ばないことにも衝撃を受けました。先生との距離感が早稲田とはまったく違いましたね。
真壁(2期):それは芦原さんの作り上げた雰囲気ですね。
足立(11期):時代でいうと影響があった雑誌『都市住宅』がでてきた頃で、デザインサーベイ(吉阪隆正)の意識が高かった頃です。またピラネージが紹介され、フォルマリズム、ラショナリズムへと建築の意識が広がり、ポール・ルドルフの時代が明らかにかわってきました。優秀な学生の課題や卒制にその傾向がありました。不況以降のアンビルト・イングランドや雑誌に引っ張られて、コンセプチャルなものが入り始めた印象的な時代。ムサビは先を行っていたのではないでしょうか。当時のバイブルは建築文化の特集号「ストリートセミオロジー」ムサビの先輩が竹山先生の授業の一環でまとめた雑誌でもあります。竹山ゼミの学生は全員持っていました。その後、竹山先生の著書『街路の意味』(1977年)で、街路を記号論的な視点から探った本からも大きな影響を受けました。チャールズ・ジェンクスの『ポストモダン』(1978年)の翻訳を同期の後藤くんが手伝っていました。雑誌『建築文化』や『商店建築』では竹山先生の特集が組まれていました。他にも『ジャパンインテリア』『室内』などの雑誌が刊行した頃。特集がしっかりしていて雑誌の文化が根付いていましたね。今と違い情報が少ない分、学生は雑誌を通して情報を得る時代でした。大学院の授業の課題はコンペが多かったです。『建築文化』にも発表をしました。
卒業後は竹山事務所に勤務。10号館は寺田先生との共同設計で行われましたが、それを担当させてもらったのは、大きな喜びでした。竣工した1981年は新耐震ができた年で、武蔵野美術大学創立50周年記念事業で建てられた建築。新耐震施行前に設計されましたが、前倒しで新基準に沿って計画されています。個人的なことですが、80周年記念事業で2号館の基本設計で宮下先生のお手伝いをできたこと、30年をへて、ムサビの2つの校舎の設計に関われたことは大きな喜びです。
-奥さまは工デ、娘さんは芸文出身と、ムサビと縁が深い足立さん。愛読されていた雑誌をお持ちいただき、出席したみなさんと当時の雑誌や本の話題で盛り上がりました。特に『蒼いニルバーナ』(1973年)はインパクトが強かったようで、松家さん(5期)から、先生が手術後に休まれた際に、授業は『蒼いニルバーナ』を読んでおくことだったというエピソードも添えていただきました。
竹山先生の街路の記号論の特集『建築文化』1975年2月号
-続いて保坂ゼミ出身の藤原さんからお話を伺いました。
藤原(11期):1974年に2浪して入学しました。定員50人の募集だったのですが、実際に入学したのは70人でした。合格発表のときに補欠入学者と線引きがあったので納得して入学しました。家の事情で1年目は半年くらい通えず、坂本先生のグループ制作課題を3日3晩ほとんど一睡もせず徹夜で仕上げたこともありました。特待生として大学奨学金をいただいていましたが、学生結婚をしたので、アルバイトをしながら必要最小限の授業を受けていました。
ムサビに入ってよかったと思うことのひとつが保坂先生との出会いです。とくに卒業してからそう思うことが多く、他の先生方もとても学生思いだということも卒業してから知りました。
3年生の頃、建築の道にこのまま進んでよいのかどうか疑問を感じていました。本当にこの職業が自分に向いているのか、やっていけるのか、という悩みをかかえるなか、建築以外で影響を受けたのは、民俗学の宮本常一先生の授業でした。感動的で面白かったですね。これが二つ目に良かったことです。「歩け、自分の目で見よ、全てがロングランなんだ」という言葉に触発され、実際の建築を見て回るようになりました。そうして、山口県立図書館(設計/鬼頭梓)との出会いが訪れ、このことが本気で建築を学ぼうと決心するきっかけになりました。
三つ目は学内に招いた「板画家棟方志功の講演会」のことです。特にファンではなかったのですが、志功さんが会場に現れた瞬間、何故か涙が溢れた時の光景ははっきり心に刻まれています。こういう不思議な体験は後にも先にもこの時の1回だけで、貴重な経験だったと今でもそう思います。その後関心を持つことになる「柳宗悦の民藝運動」の芽がここにあったのかも知れません。大学で自ら学ぶことの大切さを痛感することができ、感謝しています。
芸祭では建築学科の先輩たちがずっと続けてきた「おかめ」(焼き鳥の屋台)を有志を募ってやりました。個性の強い集団でしたが、それを受け止めてくださる先生方との親睦を図ることができました。浪人生の中にはムサビを選ぶ理由として学びたい先生の存在をあげる学生がいましたし、多くの先生がそれに応えようとされていました。また、芦原先生がつくられたという「設計計画」の授業にアーキテクトを育てるという理念を感じていましたね。
4年生当時、第二次オイルショック後でどこも就職難でした。目当ての設計事務所にポートフォリオ持参でけっこう歩き回りました。それはそれでとても良い経験をしたと思います。ほとんどが電話口で門前払いされましたが、それでも出向いていって門を叩きました。結局、学校に求人がきていた事務所に入れて戴きましたが、もともとは鬼頭事務所を希望していました。面接して欲しいと初めて電話をしたときに、鬼頭先生御本人が出て対応して戴いたことに感動したこともあって、惚れ込んでいました。その後何度か事務所にお邪魔し面談する機会を得、「何年でも待つのでぜひ入れて欲しい」旨を伝えました。最初に就職した事務所に3年ほど在籍し一級建築士を取得、その後念願叶って鬼頭事務所に入所することができました。
苦労された学生時代のお話もさわやかな笑顔の藤原さん
-続いて竹山ゼミ出身の南部さんからお話を伺いました。
南部(12期):1979年に入学。学生は80人中10人が女性で、AとBの2クラスに分かれていました。4~5歳年上の同級生が4人おり年下の私たちをぐいぐい引っ張ってくれました。またこの頃は学部違いでは、東大を中退した人や元船乗りなど、個性の強い学生が組織を束ねていました。
課題がとても活発な時代でしたね。1年生の寺田先生の課題は、新宿の中央都市に建てるセミナーハウス。同級生4人で共同設計をし、ロットリングを20本ほどつぶしながら、山口はるみのようなタッチやマスキングの鬼といわれるほど表現に凝っていました。超高層の課題ではアンチテーゼで地下を掘ったり、身体スケールという言葉が流行っていた頃で、作品に取り入れたりしていました。この作品は磯崎新さんの展覧会があった際に、真壁さんのはからいで一週間同じ会場で展示する機会が与えられて、評価を受けました。
1年生の時から白井晟一さんなど、ませた哲学的な議論を年上の同級生と交わしていました。2年生の坂本先生の課題では、実際に先生が計画されていた国立の敷地で、道と道をつなぐアメニティを住居として作るという題。ポール・ルドルフに影響されていた表現をやっていました。
ゼミの説明会で竹山先生のかっこよさに衝撃を受け、一目惚れで竹山ゼミに進みました。『蒼いニルバーナ』後で、少しおだやかになっていたが、カミソリといわれていました。竹山先生の授業は半分英語でした。カリフォルニアの大学授業の課題が持ち込まれ、自分の心象風景を模型にするという課題を実践しました。
3年生の1978年には、竹山先生の指導によりNIAE(New York International Architecture Education)の国際コンペに参加しました。サン・ピエトロ寺院前の街路をムッソリーニが分断してしまったものを計画しなおすという題。サン・ピエトロ寺院の巨大な模型を作ったのですが、模型の制作で力尽きて作品はコンペ提出期限の2日後に完成しました。最終的な模型は助手の須藤さんの計らいで、イタリア文化会館の天井にしばらく展示されました。
同じく3年生の時、学部を乗り越えて及部先生のご指導を受け、プロジェクトネーブルという課題外プロジェクトを行い、視デと一緒に鷹の台ホールの横に実物大のドームを作りました。バックミンスターフラーの理論に基づき、垂木、ハブなどの面材をダンボールで作りました。中のイベントスペースでは、劇団黒テントを呼んだり、バンドをやったり,ビジュアルインスタレーションを行ったり、いろんなイベントを開催しました。大学からの公認を受けてドームを造る行為はその後4、5年残りました。現在も視デの陣内教授が引き継いでおられます。
79年に大学院の竹山ゼミに研究生で入りました。イスラム文化センターの国際コンペで入賞し、授賞式でマドリードまで行きました。丹下健三が審査委員長。実は1位だったのですが、前年日本人が受賞したことと、学生ということで落とされてしまいました。1等は750万ペセタの優勝金があったので、もし受賞していたら人生が変わっていたかもしれません。外界を遮断する頑強な外壁と優しいホモジニアスパターンを有する家屋の屋根によって構成される内側を持ちインターナルリッチネスに繋げるコンセプトによりイスラム文化の考え方を暗喩させました。またキブラウォールというメッカに向かっての壁と北緯とのずれをサイトプラン上の粋なテーマとしました。懐かしい。。。
更田(16期):先生たちも若くてパワーがあり、学生の機運も含めて、ムサビの絶頂期だったのでは。
南部(12期):学生と先生の年齢の差が比較的近いことや、70、80年代は時代的にもエネルギーがあって文化的にもパワフルでしたね。学部を超えての交流もムサビの大事な経験でした。視デとダンスパーティを企画をしました。大学紛争で先輩たちの歴史は途切れており、実質第一期ジャズ研究会を創設したりととても充実した学生時代を過ごしました。この頃の息吹が今も自分を多いに支えている気がします。先日、私の第一期から50代目の部長までが繋がりました。
-熱のこもったポートフォリオをご持参いただき、その作品の精度と質の高さにみなさん圧倒されていました。南部さんは校友会の副会長をやっていらっしゃいますが(2015年に任期満了退任されました)日月会も盛り上げていきたいと心強いお言葉をいただきました。
学生、先生ともに右肩あがりの時代を経てきた中で、もう一人、他大学からムサビに入学された佐奈さんへバトンタッチ。
たくさんの資料の中から当時の製図室の様子の一枚
佐奈(14期):早稲田大学法学部卒業後、当時は学士入学という制度がなかったので、ムサビには1年生から入学しました。オイルショックが起きたのは早稲田の1年の時。当時は建築に興味がなかったのですが、実家の工務店を継がざるをえなくなり、美大を目指すようになりました。実家の工務店では、建築家やデザイナーと一緒に店舗やおもしろい建物をつくっていて、面白い人たちに囲まれていました。そんな中で長谷川堯先生のことを教えてもらい、本に衝撃を受けました。遠い親戚に坂本ゼミを出た人がいたこともあって、ムサビを受験。奥さん探しもあったかも。
初日から黄色いスポーツカーで通学する不良でした。現在10号館があるところは当時駐車場で、学生も停められたのです。卒業後は教務補助で2年残り、その間に10号館が建てられました。
皆より4歳年上で入学しましたが、他にも東大の化学を卒業した人、日大中退など、いろんな経歴の人が集まっていました。1年生で共通絵画の授業を受けましたが、パネルの水張りも知りませんでした。一般教養、語学免除なので時間が余り、単位はとれないけど他の授業を聴いたり、研究室の助手・須藤さんに話して4年生の講義科目を先取りしたりしていました。そのため同級生とは多少ずれがあったように思います。
早稲田のようなマンモス大学とムサビが違うのは先生が身近なこと。先生が肩越しに話しかけてくるのというのに驚きました。早稲田にはまだヘルメットをかぶった学生がいた。法学部は民青、教育・社会学部は革マルと学内派閥に分かれていて、民青と中核とは争うことはあまりなかったが、革マルと中核など思想の根が同じもの同士が内ゲバをしていたのを横目でみながら過ごしていました。比べるとムサビは平和でしたね。
大学院生と同い年だったので、院生室にいりびたっていました。鈴木明さんや横畠さんなどと議論することもありました。長谷川堯先生の大学院の授業でジョサイア・コンドルや村野藤吾の建築をめぐることがあった時に、車が足りないということで声がかかり参加しました。親の車を借りて行ったら、長谷川先生が助手席に座られました。それが縁となり、先生の大学院の授業を受けることを許可されました。
1年の時からいずれは坂本ゼミを取ると決めていました。物事を形式的に捉える、という先生の講義。形式主義はややもすれば批判されがちだが、物事をある種のタイプ、形式として抽象化する能力は大切だ、と教わりました。法学部に入ったのは文化のインフラとしての法律に興味があったからです。世界の文化の形は、それぞれの国の人間の表象でできあがっている。その枠組みを言葉で端的に作ったものが法律だということ。国によって法律が違うこととは、その国それぞれの文化・文明の捉え方が違うから、罪の定義が異なる。建築は壁、出入り口、開口部の位置を決定することにより、人間の行動を制限し、または促進させるという、両者の共通性に興味がありました。
2、3年生の頃、経歴が変わっているからか、保坂先生からお声がかかり、事務所で模型のアルバイトをしました。保坂事務所は夕方6時以降はアルコール解禁で、所員が皆飲みながら仕事をしていました。模型を作っていると、先生がコップでお酒を飲ませてくれたりして、保坂ゼミに入らないわけに行かなくなりました。それだけでなく、歴史的や外国の比較文化をゼミでやるというという点に惹かれて、保坂ゼミを選びました。
卒業するころ、進路に迷っていましたが、我々の前の大学院の坂本ゼミでは実際に先生が設計しているプロジェクトに関われるというのがとても魅力的でした。自分は8年も学生をしていたこともあり大学院進学は諦めたのですが、坂本先生の勧めで教務補助として学校に残り、週3回自由な時間に坂本ゼミに授業にでてよいということになりました。ところが、この年から先生はしばらく設計をやらず、建築のイメージ調査の研究をやるということになり、はじめ同期の学生は皆あてが外れたと憤慨していました。しかし研究を学会で発表するなど貴重な経験を持てました。
-先生と学生のよい距離感など、学園紛争後のむさびの古きよき時代の総括としてとてもよいお話をお伺いできました。
ユーモアのあるエピソードをたくさんお持ちの佐奈さん
-今回は早稲田とムサビとの比較を通して、ムサビの特徴がより鮮明になったように思いました。他にも雑談の中からも興味深いお話をたくさん伺いましたので、その中から先生語録をいくつかピックアップします。
難易度の高い構造の授業を教えられていた織本先生:
「計算できなくてもよい。それは構造家の仕事。ぱっとみてこれが持つか持たないかの感覚だけ研ぎ澄ませておきなさい。」
「模型を作って倒れなければよい。」
また学生の講評会で、磯崎先生が学生作品そっちのけで自分のプロジェクトの構造を織本先生に相談していたこともあったそうです。
最初は図学・製図を教えられていた坂本先生:
「ムサビに入るまでに積もったもの、あらゆる目にかかかったいろんなフィルターを取り除くこと。違う視点、根本的な目で見ることが大事。」
時代は変わってもこのように培われてきたた「ムサビズム」が、この先も継承されていくように日月会としてサポートしていけたらと思います。
盛り上がった懇親会のひととき