下記日時・場所において、18回目となるプレ・フォロが開催されましたので、その概要をご報告いたします。
今回は2部構成で進められ、第1部が建築学科50周年に向けての名簿整備状況と今後の整備についての確認。第2部が建築学科の歴史における「学園紛争期」のお話を下記のゲストの方々からお聞きする。という企画でありました。
なお、第2部は、第14回プレ・フォロ(2012.6.17)での建築学科創設期の話に続く、「ムサビ建築学科の歴史をプレ・フォロメンバーで共有していこう」というプレ・フォロ企画として計画されたものです。
開催日時:平成26年1月26日(日) 16:00-20:15
開催場所:更田邦彦建築研究所(世田谷区代沢4-40-10 サクラB)
第2部ゲストスピーカー(敬称略):池野秀基(2期)、松家克(5期)、小島嘉重(5期)、須藤和由(6期)、山本幸正(7期)・・小島さんを除きプレ・フォロメンバー
企画担当:寺阪桂子(プレ・フォロ幹事)
進行役:更田邦彦(プレ・フォロ幹事)
準備他:鈴木竜太、棚橋玄(プレ・フォロ幹事)
出席者(ゲスト・幹事除く、敬称略-期代):真壁智治-2、佐奈芳勇-14、寺田晶彦-16、酒向昇(会長)-21、下村治子-21、向田好文-22
陪席者(敬称略):田宮晃志(執行部)、小泉一斉(50周年委員会)、金子祐介(日月会協力者)
■第1部(16:00-17:20)
はじめに、酒向会長から50周年に向けての進行状況をお話しいただき、記念事業については下記のような方針で進められている旨の報告がありました。
・主催:建築学科、共催:日月会、後援:校友会
・催事日程:平成26年9月20日(土) 鷹の台キャンパスにて
・催事内容:記念講演、記念式典、記念パーティー、記念出版(研究室が編集する50周年記念誌)、フォルマ・フォロ増刊号(日月会が編集する「課題」をテーマとした冊子を来年の会報に加えて送る)
・今後の予定概要:1月/発起人呼びかけ 会報にての告知 2月/催事内容確定 3月/正式告知 6月/記念出版原稿1次アップ 7月/研究室から式典案内送付 8月/記念出版校了・印刷
次に、出席いただいた5期ごとの担当者に現在の名簿整備状況をご報告いただき、その上で今年度総会前の3月25日を締めとして、再度各期の幹事さんに名簿整備を進めていただくよう確認しました。
■第2部(17:30-20:15 参加者:18名)
進行役のもと、期代の上の順からゲストスピーカーに当時(1967年頃から1971年頃)についてお話しいただきました。
第2部からは、用意した多少のお酒とおつまみ(会費徴収による)を飲食しながら、気軽な雰囲気のもと進めましょう・・という企画のもと進められ、それぞれのゲストの方のお話に加え、参加者からの解説や追加・修正、質問が飛び交い、実に活発な意見交換が繰り広げられました。下記にその極めておおまかな概要を記します。
←第2部開始時の様子
進行役:学園紛争により、今日のゲストの同期生の中には大きく人生を左右されてしまった事実もあるようですし、なかなか私たち後輩にさえ話しづらいこともあろうかとも思いますが、50周年を迎えようとしているムサビの建築学科の歴史において、とりあえず私たち限られたメンバー内において、知っておく、または確認しておく必要があろうかと思いますので、お話しいただける範囲で順番にお聞かせいただけると幸いです。
池野(2期):創学期の話をする際にも話したが、私は建築が「デザイン」であるという認識がなく入学したが、芦原先生はじめ他の大学にはない教育方針に感動しながら学んでいた。講評会は学生主催のバーベキューに先生をよんでやるといったこともあった。2・3年生になるとみんないろんな本を読み出して生意気になっていったが、そのころ(1966~67年頃)の新宿が面白くて、当時のいろんな活動を見ているうちに、「世の中これでいいのか・・」と言ったことを学生が話し始めるようになっていった。それが学園紛争の予兆のようなものであったように思う。それでもまだムサビは安穏としていたが、フランスの5月革命(1968年)が起ったりしてくると一気に学生運動の気運が盛り上がっていった。また、日本は高度成長期のただ中で就職の心配は全くない時代だったが、景気は良くても世の中が不安でイヤな空気が流れていた。そこで私は、卒業後の 1968年に副手(今の教務補助)という立場で学校に残ることにしたが、当時の実技専修科から過激な運動が始まった。それが建築学科にも徐々に波及し、建築学科でも学生の先生に対する暴力という許せない行為を目することになってしまった。副手という立場で学生に加担する気持ちもあったがそんなことで嫌気がさし、先生もだんだん来なくなって急激に学校の機能も失われていった。そんなことで副手も1年で(1969年に)やめることにした。その後は、岩淵先生が学生をイタリアに連れて行ってくれるという話があったので、それは・・ということで岩淵事務所に通うことにしたが、長期留学を目指していたことからその後岩淵事務所も辞めることになった。
真壁(2期):少し付け加えると、私はムサビ卒業後芸大の大学院に行ったのだが、芸大では北川フラム、坂本龍一らが活動を始めていて、よそから大学院に来た私や山本理顕らが北川たちにエールをおくっていた。その後芸大の助手をすることになるが、基本的には学生を支持する側でありたいと行動していたが、それが学生を煽っていると思われて教授会から糾弾されるようなこともあった。
進行役:ここまで、池野さんと真壁さんに、学生運動の予兆から具体的運動に突入していく流れを、芸大の視点も加えてお話しいただきました。次に当事者となる5期のお二方からお話いただきます。では、松家さんから。
←正面左から、池野さん、小島さん、松家さん
松家(5期):いわゆるこの時の学園紛争というのは、70年安保闘争を期に「国が変るぞ・・」というような気運のもと起った1968~70年の学生運動のことで、大学と高校も含め国中が浮き足立っていた。1969年に当時ムサビは多摩地区の拠点校になるが、国分寺の東京経済大も拠点校としてもっと激しい運動を展開していた。その活動メンバーは東大・日大紛争の「青ヘル(反帝学生協議会)」のメンバーにつながっていて、ムサビでは建築4期のメンバーが委員長をしていた。彼はその後中退し、その時の闘争メンバーで私の友人だった彼はその後実刑をくらって大きく人生を左右されることになる。また、闘争中にガス中毒で一人亡くなるなんてこともあった。私は当時2年生だったが、1969年の6月に授業停止となり、活動しているクラブがまとまった「サークル協議会」が主体となってデモにも参加するようになると、とうとう門にバリケードが築かれ学園封鎖状態となってしまった。その時に建築学科の学生は、4~2年生の有志が団体交渉をすべく、芦原先生に不平不満を訴えに芦原事務所に行ったこともあった。その後、ロックアウト状態となり「大学がなくなる・・」という噂も流れて、いろんなことに影響を被った。教授の岩淵さんも学校を辞められ、織本さんは問題解決を図ろうと「理事長に立候補する・・」と言い出したりしていた。その後学校が大混乱に陥り、7号館の階段教室で激しい団体交渉を行ったりしていた。
須藤(6期):少し流れを整理すると、1969年の6月に学生がバリケードで学校を封鎖するが、その後「大学立法」などいろんなことがあり、8月に機動隊が入って封鎖を一旦解除してその後大学側が大学を閉じた。大学側が学校を閉じたことを「ロックアウト」という。その後、大学は誓約書を書いた学生のみに入校証を出して、門にはガードマンを配して大学に入る学生を制御していった。その時点で学生運動は実質敗北していたので、69年時も授業は行っていたし、70年になるとほぼ学校は元通りになっていたが、一部反発する学生もいることはいた。
松家(5期):私は大学のやり方に反発して入校証は持っていなかったが、学校内のゼミ室に寝泊まりして生活していた。でも安保闘争をやっている人達とは違う意識で戦っていた。それで3・4年時にはほとんど授業を受けていなかったが、今思えば、反体制的に運動を頑張っていたのは、総じて早熟の人達で、東京よりも地方出身の人達だったように思う。しかし、たった2年足らずの短い時間だったが、あの運動で人生を大きく変えることになった人達がいたことを忘れはならない。ちなみに、皆さんが知っているフォークソングは70年安保の学生運動時に学生が反戦歌として歌っていたものから始まったものだし、各大学のアジテーションのための立て看板も書体とデザインに独特のものがあった。
←会場の様子
進行役:小島さんも松家さんと同じ5期ですが、別の視点からお話をお聞かせください。
小島(5期):私は在学中も含め岩淵事務所に長い間いたのだけれど、学生時代は真壁さんたち先輩が築いてきたムサビのいいところを引っ張ってきたという思いもあるので、闘争の話だけでは荒れたことばかりになるが、そういったことも今になれば面白く話せるのではないかと思う。これまでの話にもあったが、我々の青春時代は、若い連中が世の中を変えていけるのではないかという気運に満ちていて、映画や演劇などいろんな芸術何を見てもそういったことが表現されていた。先生方も60年安保で運動していた人ばかりだったし、入学してそういう人達と対面すると、態度を曖昧にできなかったし何かを選択しなくてはならなかった。新宿で見られる「赤テント」などの演劇は、体制を批判しながら面白いものをバンバンやっていたし、芸術の一端を担うムサビも何かやらなければならない思いに巻込まれていったのは確かだった。私学に通わせている親にとっては、大学が封鎖になるような状況に落胆しただろうが、「こんな時代だから・・」と何とか説得していた。私は68年入学だが、1年生のときには学園祭もやったし、真壁さんのアトリエに遊びにいったりして先輩との縦のつながりができたし、先生方も個性的で面白い学校に来たなという実感がまだあった。それが、69年にロックアウトになり大学の様相がガラッと変って、運動をやるかやらないかでふるいにかけられていった。印象的だったのは、68年でムサビを辞めた磯崎さんが、最後に「お前たち良くやった・・」、それは、「ムサビの柔な奴らが反体制的な運動をよくやった・・」という意味だが、そんなことを言ってくれたことや、芦原さんが丁寧な言葉を残しながら東大に去っていった(68年)ことなどが記憶にある。69年は、岩淵さんなど残った先生と粛々と授業らしきものをしてはいたが、その岩淵さんもその年に辞められ、70年になると教授陣も大きく変って、後輩との距離もますます広がっていったように思う。
進行役:これまでのお話で、紛争時代の流れはかなり把握することができました。そこで、授業やゼミの状況を整理すると、それらが正常に行われるようになったのはいつごろで、そのときあったゼミは誰のゼミだったのでしょう?
須藤(6期):69年の4月に、磯崎さんに代わって山岡さんが来られ、授業は70年には正常化しており、寺田、竹山、保坂、織本、川瀬ゼミがあった。山岡ゼミがいつから始まったかは定かではない。
進行役:では次に、引続き須藤さんにこれまでのお話を整理しつつ、その後の流れをお話しいただければと思います。
←熱く語る須藤さん(中央)
須藤(6期):私は69年の4月に入学して、運動に参加する意志もないままに5,6月には大学が封鎖になった。その前には、大学を粛正すべく「大学立法」を田中角栄が中心に成立させようとしていて、それに対する反発とベトナム戦争に対する反米の人達が戦っていたところに、フランスやアメリカで学生蜂起が起って、日本も学生が世界を変える革命を起こせるのではないかという希望を持っていた。なので、大学の授業よりも社会を変えるべき運動にほとんどの学生のモチベーションは向かっていた。ムサビは「青ヘル」(反帝学協)が組織的に動いており、各学科にもそれぞれ組織が組まれて盛上っていったが、8月頃には敗北に終わり急速にその気運は終息した。その時点では、「大学はもうダメになった・・」と思っていた。
小泉(参加者 29期):70年には大阪万博もあり、高度成長期を邁進していた日本には別の盛上りもあったと思うが、学生たちはどのようにその時代と接していたのでしょう? 建築的にはメタボリズムのような盛上りもあっただろうし、70年代後半のポストモダンにつながるような建築思想や、アレキサンダー、ベンチューリの思想などは議論されていたのでしょうか?
須藤(6期):70年万博は、学生運動が終息して、まだ気持ちが収拾つかなかった状態だったので何となく傍観していた。ただ、運動の気運から万博はかなりずれていた気がする。私は、建築に興味があってムサビに入学したわけではなかったし、「学生が世界を変えられる・・」といったもっと大きな別のモチベーションでムサビに来たわけだから、運動をしていた頃は、メタボリズムなど建築の話題は私の周りの学生にはなかった。2年生になって、学園紛争が終息して急に気分的にシラケていくのだけど、学校も落ち着いてきて3年生頃になって建築に興味を持つようになった。そのころ坂本先生が非常勤で来られて(71年)、その後大学院ができたこともあり坂本先生の勧めで大学院に行き、修了後も助手として79年までムサビに残ることになった。
池野(2期):ベンチューリの論文は(建築の多様性と対立性(1966)など)実に刺激的で、60年代後半我々の代ではよく議論していた。須藤君の代は、そういったこと(建築的思想について議論するようなこと)が抜け落ちてしまった時代だったように思う。
進行役:須藤さんは、激動に時代に入学してその後のムサビの建築学科をずっと俯瞰されてきたのだと思います。学園紛争以降の70年代のお話はまた次回ということで、最後に須藤さんの1期下に入学された、山本さんのお話をお聞かせいただきたいと思います。
山本(7期):私が入学した1970年は、既に学校はもとに戻っていて、1年生時から授業が普通に行われていた。井上武吉先生の共通彫塑もあったし、寺田先生のニセコの別荘の課題などを覚えている。前年の学園紛争の影響による不安もあったが、ノンポリの私にとっては、大学でちゃんと勉強できるのはいいものだと思っていた。その年に芸術祭も行われることになって、建築科でも出品することになり、学校に泊まって準備を進めていたが、学生執行部の中心メンバーが「反帝学協」の人達だったので、学校側が再度機動隊を入れて芸術祭を中止させてしまった。その時から、学校には泊まれなくなり、夜8時で電気が消されることになった。その後、学生は抵抗することなく運動グループは解体されていき、多少の燻りの中で運動を続けようとしていた学生もいたが、どんどんあきらめムードが浸透していったように思う。その後も、72年の浅間山荘事件など学生運動の終末を横目で見ながら、建築の学生は皆、右肩上がりの経済状況の中に自分の学生時代を投入していったように思う。
←淡々と語る山本さん(右)
進行役:ゲストの皆さん、ありがとうございました。この時代の話を何も聞かされてこなかった私たちの世代にとりましては、実に興味深く参考になる話ばかりでした。最後に日月会会長の酒向さんから、締めのご挨拶をいただければと思います。
酒向(21期):今日は貴重なお話ありがとうございました。この時代の当事者の方々は、なかなかその当時のお話をされませんでしたが、今日は前もってのプレ・フォロの企画ということもあり、いきなりたくさんのお話をお聞かせいただき本当に有意義でした。今年は建築学科50周年ということで、現在多くの方々に協力いただき楽しい雰囲気で準備を進めています。今後は予算的なことも含めてさらにご協力いただくことになりますが、どうか宜しくお願いします。
進行役:ありがとうございました。この後も懇親会の席を用意していますので、ご参加いただいた方の質問も含め、さらにお話をおきかせいただければと思います。今日は皆さんお集まりいただきありがとうございました。
以上、ご報告まで。(記載内容は、メモと録音データをもとにまとめたものです)
記録(報告):更田邦彦(プレ・フォロ幹事 16期)
撮影:鈴木竜太(プレ・フォロ幹事 36期)